■単元株

グラントとミードはコールドハーバーでそれ以上南軍に攻撃を仕掛けなかった。グラントはワシントンに電報を打ち、「決定的な有利は得られなかった」ことと、その「損失は大変ではない」と伝えたが[11]、後にその兵士達を戦場に送ったことを終生後悔したと告げた。対戦する両軍は9日間の塹壕戦で睨み合いを続け、ある場所では数ヤードしか離れていなかった。狙撃手が継続的に動き、多くを殺した。北軍砲兵隊は8門の迫撃砲で南軍に対する砲撃を行った。南軍は北軍陣地に対し24ポンド榴弾砲や弧を描く砲弾を撃ち込んで応じた。もはや大規模の攻撃は無かったが、この戦闘全体の損失は6月3日単日の数字の倍ほどになった。 塹壕は暑く、埃っぽく、惨めなものだったが、前線の間の方がもっと悪かった。数千の負傷した北軍兵が食料や水あるいは医療介護もなく苦しんでいた。グラントは負傷兵を引き取るために正式の休戦を求めることが戦闘での敗北を認めたことになるために躊躇した。グラントとリーは6月5日から7日に文書を行き交いさせたが合意には至らず、グラントが正式に2時間の休戦を求めたとき、不幸な負傷者の大半には遅すぎ、この時は膨れた死体になっていた。グラントはこの判断ミスについて北部の新聞から広く批判された。 6月4日、グラントはバーンサイド軍団をマタデクィンクリークの背後に動かして予備隊とし、ウォーレン軍団はスミス軍団と連携するように左方に動かし、その前線を約3マイル (5 km)まで短くすることで引き締めた。6月6日、アーリーがバーンサイドの新しい陣地を探ったが、通行できない湿地のために前進できなかった。 グラントはこの方面作戦で今一度、リー軍に対して手詰まりであり、追加攻撃は答えでないことを認識した。先へ進むために3つの行動を計画した。1つめは、シェナンドー渓谷でデイビッド・ハンター少将が南軍に対して侵攻中であり、リー軍の補給を止めることでシェナンドー渓谷に援軍を派遣せざるを得ない状況にすることだった。2つめは、6月7日にシェリダンの指揮で騎兵隊(デイビッド・M・グレッグとウェズリー・メリット各准将の師団)を派遣し、シャーロッツビルの近くでバージニア中央鉄道を破壊することだった。3つめは、リー軍の前面から軍を退き、密かにジェームズ川を渉ることだった。リーは初めの2つの行動には期待通り反応した。コールドハーバーからブレッキンリッジの師団を引き抜き、ハンターの動きをかわすためにリンチバーグに派遣した(6月12日までにジュバル・アーリーを第2軍団の恒久的指揮官に任命してこれもシェナンドー渓谷に送った)。また 師団ある騎兵隊のうち2個師団をシェリダン隊の追跡に送った。しかし、グラントがジェームズ川を渉るかもしれないと予測していたにも拘わらず、それが起こったときはびっくしりた。6月12日、ポトマック軍は遂に交戦状態を解き、南東に移動してジェームズ川を渉り、リッチモンドの南にある重要な鉄道の結節点、ピーターズバーグを脅かした。 コールドハーバーの戦いは南北戦争でリー軍が得た最後の勝利であり(その軍の一部は翌月のピーターズバーグ包囲戦中、クレーターの戦いで勝利したが、これは両軍間の大きな会戦ではなかった)、その損失という点では最も決定的なものだった。北軍は無益な攻撃を仕掛け、12日間で10,000名ないし13,000名を失った。5月の初め以来北軍の損失合計は52,000名以上となり、リー軍の33,000名を大きく上回った。この損失は恐ろしい数字だが、グラントの巨大な軍隊はリー軍より小さな損失率でこの方面作戦を終わった。 コールドハーバーの戦いの損失については資料により推計値が異なる。下表は一般にある多くの史料からの要約である。 何人かの著者(キャットン、エスポジット、フット、マクファーソン、スミス)は6月3日の主会戦における損失を推計し、北軍は約7,000名、南軍は1,500名ということで一致している。ゴードン・レアはグラントのオーバーランド方面作戦について現代の傑出した歴史家と考えられており、損失のリストを詳細に検討し、2002年の著書『コールドハーバー』で反論を出版した。6月3日朝の攻撃で北軍の戦死、負傷および不明を合わせて3,500名から4,000名に過ぎないとし、北軍全日では約6,000名、南軍は1,000名ないし1,500名とした[12]。これは恐ろしい損失には違いないが、リー軍がアンティータムの戦い、チャンセラーズヴィルの戦いおよびピケットの突撃で蒙った損失よりも小さく、マルバーンヒルの戦いに匹敵するものである。 この戦闘は北部州で厭戦気分を高揚させた。グラントはそのまずい決断故に「不器用な肉屋」とまで呼ばれた。生き残った部隊の士気も下げさせた。しかし、この方面作戦はグラントの目的に貢献し、コールドハーバーでの攻撃が愚かだっただけに、リーが罠に嵌った。リーはピーターズバーグにむけてほとんどグラント軍を攻撃せず、戦争の残り期間(その最後の1週間を除いて)防御を施した塹壕線の背後でリッチモンドを守ることで過ごした。南部人はその状況が絶望的であると認識したが、リーの頑固な(そして流血の多い)抵抗でエイブラハム・リンカーンに対する政治的反動を生み、1864年の大統領選挙ではもっと平和を志す候補者に敗れることを期待した。しかし、9月のアトランタ占領によってそれらの望みは崩壊し、アメリカ連合国の終焉は時間の問題となった。 この戦闘中バーネットの 場は北軍の病院として使われた。北軍兵はバーネット夫人が取って置いた水晶の皿を除いてあらゆる貴重品を持ち去った[13]。 2008年、南北戦争保存信託はコールドハーバー戦場跡をその最も危険に曝されている戦場跡10箇所のリストの中に入れた[14]。リッチモンド地区の開発の波は大きく、かっては少なくとも7,500エーカー (30 km2)あった戦場跡も現在は約300エーカー (1.2 km2)が保存されているだけである。 サウス山の戦い(サウスさんのたたかい、英:Battle of South Mountain、資産運用 の初期文献ではブーンズバラギャップの戦い、英:Battle of Boonsboro Gap)は、南北戦争のメリーランド方面作戦の一部として1862年9月14日に行われた戦いである。サウス山の山径3箇所、すなわち、クランプトンギャップ、ターナーギャップおよびフォックスギャップの占有を巡って3つの会戦が行われた。北軍ジョージ・マクレラン少将がポトマック軍を指揮し、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍を追跡するためにこれらの山径を通過する必要があった。リー軍は勢力的には負けていたが、マクレラン軍の進軍を1日遅らせた後に撤退した。 サウス山はブルーリッジ山脈の並びがメリーランド州に入ったところに付けられた名前である。シェナンドー渓谷とカンバーランド渓谷をメリーランド州東部から分ける天然の障害である。 リーがメリーランド州に侵入した後で、その軍隊の動きの詳細を書いた命令191号と呼ばれるものの写しがマクレランの手に入った。この写しからマクレランは、リーがその軍隊を分けていることが分かり、それらが再結集して対抗してくる前にこれら孤立した部隊を攻撃し打ち破れると期待した。リー軍に追いつくためには、サウス山を横切る必要があった。リーはマクレランが重要情報を掴んでいることを察知し、直ぐにその前進を妨害するために山径の部隊に援軍を派遣した。 マクレランはこれら山径を攻撃するために一時的にその軍隊を3つの翼に編成した。アンブローズ・バーンサイド少将が右翼で第1軍団(ジョセフ・フッカー少将)と第9軍団(ジェシー・L・レノ少将)を指揮した。右翼は北のターナーギャップとフォックスギャップに派遣された。左翼はウィリアム・B・フランクリン少将が指揮し、その第6軍団と第4軍団のダリウス・N・カウチ少将師団で構成され、南のクランプトンギャップに派遣された。中央(第2軍団と第12軍団)はエドウィン・V・サムナー少将が指揮し、予備隊とされた。 この戦闘では一番南、バーキッツビルの近くで、南軍の騎兵隊とラファイエット・マクローズ少将師団の中の小部隊がブラウンズビル山径とクランプトンギャップを守った。マクローズは12,000名の北軍が近付いていることに気付いておらず、ウィリアム・A・パーラム大佐のわずか500名をクランプトンギャップ東麓にある長さ4分の3マイル (1.2 km)の石壁の背後に薄く配置していた。フランクリンは自隊を配置させるのに3時間を使った。ある南軍兵は後に、「勇敢なちっちゃなネズミが飛び出すのに備えて過度に慎重になっているライオン」と記した。フランクリンはヘンリー・W・スローカム少将師団を右翼にウィリアム・F・"ボールディ"・スミス少将師団を左翼に配置した。北軍はこの山径を占領し400名を捕虜としたが、その捕虜の大部分はハウエル・コブ准将の旅団から遅れて援軍に到着した者達だった[1]。 南軍のD・H・ヒル少将は5,000名の兵士をターナーギャップとフォックスギャップを守るために長さ2マイル (3 km)以上にわたって配置した。バーンサイドは右のターナーギャップにフッカーの第1軍団を送った。北軍の鉄の旅団がナショナル道路沿いにいた個人向け国債 アルフレッド・H・コルキット大佐の小さな旅団を攻撃し、山に上がるように後退させたが、南軍は山径を明け渡すことは拒否した。フッカーは峡谷の北1マイル (1.6 km)にある2つの峰に3個師団を配置した。南軍はデイビッド・R・ジョーンズ准将の師団とネイサン・G・エバンス准将の旅団から援軍が到着したものの、ロバート・R・ローズ准将のアラバマ旅団は孤立した陣地にいたので、後退を強いられた。暗くなったことと難しい地形のお陰で、リー軍の前線は完全な崩壊を免れた。夜になっても南軍は峡谷を依然守っていた[1][2]。 直ぐ南ではD・H・ヒル少将師団の他の部隊がレノの第9軍団に対してフォックスギャップを守った。北軍ジェイコブ・ドルソン・コックス少将のカノーハ師団による午前9時の攻撃で、峡谷より南の地域の大半は確保した。この動きの中で第23オハイオ連隊のラザフォード・ヘイズ中佐(後の大統領)が側面攻撃を率い、重傷を負った。コックスは峡谷の頂部にある石壁背後に陣取るノースカロライナ部隊を押し込んだが、兵士達が疲れていたので掴んだ優勢に付け込むことができず、ダニエル・ワイズ農園周辺の峡谷に南軍の援軍が配置されるのを許してしまった。レノは軍団の残り部隊を前進させたが、折悪しく南軍ジョン・ベル・フッド准将の援軍が到着し、守備隊を押しのけることができなかった。北軍のジェシー・L・レノ少将と南軍のサミュエル・ガーランド・ジュニア准将がフォックスギャップで戦死した。北軍兵は南軍兵士の死体をワイズ農園の井戸に投げ込み、補償のためにワイズに60ドルを支払った[3]。 リーは、薄暮までにクランプトンギャップを失い、フォックスギャップとターナーギャップの陣地も覚束なくなったことから、その勢力で劣る軍隊にサウス山からの退却を命じた。マクレランはこのとき、リー軍が集積する前にこれを破壊できる位置にいた。この戦闘で北軍は28,000名が関わり2,325名(戦死443名、負傷1,807名、不明75名)の損失となった。南軍は18,000名が参戦し、2,685名(戦死325名、負傷1,560名、不明800名)が損失だった[3]。ipo の戦いは敗北続きでうちひしがれていたポトマック軍にとって重要な士気をあげる機会だった。「ニューヨーク・ワールド」紙は、この戦闘が反乱軍の成功の波を押し返した」のであり、「反乱軍の力は絶望的に砕かれた」と書いた[4]。リーはそのメリーランド方面作戦を終わらせることを考慮した。しかし、マクレランのサウス山での勝利後、9月15日の限られた行動のために、ハーパーズ・フェリーの守備隊は降伏を強いられ[5]、またリー軍にはシャープスバーグで散らばっていた部隊を集結させることになり、9月17日のアンティータムの戦いに繋がった[6]。