アプトンの右手では、ウィリアム・S・トルー大佐の旅団が、湿地で灌木の多い谷間の向こうに、クリングマンとウィリアム・T・ウォフォード准将旅団との間で南軍前線の隙間を見付けた。トルー隊がこの隙間に突撃すると、クリングマンが2個連隊を振って向かわせ、アンダーソンはその軍団予備隊からエッパ・ハントン准将の旅団を送った。トルー隊は3方から囲まれるようになり後退を強いられたが、ジョージア兵数百名を捕虜にして連れてきた。
暗くなるまでに、戦闘は凋んでいった。北軍は2,200名の損失を出したにも拘わらず、750名の捕虜を得た他は大した進展も無かった。[4]アプトンやミードを含め将軍達数人は適当な偵察も無しに攻撃を命じたグラントのことで激怒した。
6月1日の攻撃は不成功だったが、ミードは6月2日早くに適切な場所に十分な兵力を集中できれば、攻撃は成功すると考えた。ミードとグラントはリー軍の右翼側面を攻撃することにした。アンダーソン隊は6月1日に激しく戦闘を行っており、そこそこの防御を構築する時間が無かったように思われた。もし攻撃が成功すれば、リー軍の右翼はチカホミニー川まで押し込まれることだろう。ミードはウィンフィールド・スコット・ハンコック少将の第2軍団にトトポトモイクリークから南東に移動しライトの第6軍団左に陣を占めるよう命じた。ハンコック軍団がその陣地を占めれば、ミードが古いコールドハーバー酒場の交差点の左翼から3個軍団総計31,000名で攻撃を始めることとした。すなわちハンコックの第2軍団、ライトの第6軍団およびボールディ・スミスの第18軍団だった。また、リーはその右翼を強化するために左翼から部隊を動かすものと確信し、ウォーレンとバーンサイドの軍団に「万難を排して」朝にリー軍の左翼に攻撃を掛けるよう命令した[4]。
ハンコック軍団はほとんど夜通し行軍し、直ぐに
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から攻撃を掛けるには疲れすぎていた。グラントは兵士を休ませることに同意し
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を午後5時まで延期したが、その後さらに6月3日の午前4時半まで再度延期した。しかし、グラントとミードは具体的な攻撃命令を出さず、南軍の何処を撃つか、軍団同士でどのように協調するかは軍団指揮官の判断に任せた。さらにはどの上級指揮官も敵軍の配置を偵察しなかった。ボールディ・スミスは彼が「全く軍事作戦の入っていないことが分かったそのような命令を受け取ったときに愕然とした」と記した。スミスはその参謀に全体攻撃は「単純に私の最良の部隊を殺す命令だ」と告げた[5]。
リーは北軍の攻撃が送れた時間を利用して防御を増強した。ハンコック軍団がトトポトモイクリークを出発した時、ジョン・ブレッキンリッジ少将の師団を最右翼に移すことができ、ブレッキンリッジ師団は再びハンコック軍団と対峙することになった。ブレッキンリッジは戦場の南部を見下ろすターキーヒルから北軍の小部隊を駆逐した。リーはブレッキンリッジ師団を支援させるために、A・P・ヒル中将の軍団とウィリアム・マホーンおよびカドマス・M・ウィルコックス各准将の師団も移動させ、フィッツヒュー・リー騎兵隊は全軍の右翼側面を守るよう陣取らせた。その結果左側面はトトポトモイクリークに接し、右側面はチカホミニー川に当てて側面攻撃を不可能にし、低い尾根に沿って全長7マイル (11 km)の曲線を描く前線ができた。
リーの工兵隊はその時間を有効に使い、「この戦争でそれまで見たことも無いほど巧妙な防衛配置」を造り上げた[6]。土と木材を使った障壁が建てられた。砲台は如何なる接近路にも砲火を集中できるよう配置され、砲手の照準の正確さを上げるために杭で地面に固定された。ある新聞特派員は、その工作が「入り組んでいて、前線の中にジグザグの線があり、側面の前線を守る前線があり、敵の前線を縦射できる前線があった。...工作の中の迷路と迷宮のようだった」と書いた[5]。厚くされた散兵線があり、北軍が南軍塹壕線の強度や正確な配置を特定することを不可能にしていた。
北軍兵はその目標とするものの詳細を知ることはなかったが、スポットシルバニア・コートハウスの戦いを戦い抜いてきた者達にとって、その朝向かっていくものについて疑いは無いように見えた。多くの者は名前を書いた紙を制服の内側にピン止めし、遺体が識別できるように考えた。戦闘後血しぶきを浴びた日記帳が北軍兵から見つかり、最後の記述は「1864年6月3日、コールドハーバー、私は殺された」となっていた。
戦場の北のはずれでは、北軍のガバヌーア・K・ウォーレン少将の第5軍団がベセスダ教会近くでアンブローズ・バーンサイド少将の第9軍団と合流していた。南軍左翼のジュバル・アーリー中将の軍団が前進しウォーレン軍団の散兵を何人か捕虜にした。夜を通して軽い交戦が続いたが、その後の主会戦には影響しなかった。ある時点でバーンサイドはサンディグラブ道路に沿ったアーリー軍団の防御のない側面を攻撃するよう忠告を受けたが、バーンサイドは躊躇した。
コールドハーバーの戦い、6月3日6月3日午前4時半、
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の3個軍団が厚い霧を縫って前進を始めた。直ぐに南軍前線からの激しい砲火が襲い大きな損失を出させたうえに、生き残った者もその場に釘付けになった。前線の様々な場所で結果は異なっていたが、北軍の前進全体が撃退されて、1862年のフレデリックスバーグの戦いにおけるメアリーズハイツ以来となるほとんど一方的な北軍の敗北となった。
北軍左翼でこの日の最も実効を上げたのは、ハンコック軍団がブレッキンリッジの前線を突破し、白兵戦の中で南軍兵を塹壕から排除したことだった。数百名を捕虜に取り、大砲を4門捕獲した。しかし、近くにあった南軍の砲台からその塹壕に砲撃が行われ、そこは北軍にとって死の罠となった。ブレッキンリッジの予備隊がフランシス・C・バーロー准将師団の部隊に反撃し撃退した。ハンコック軍団の他の進行師団であるジョン・ギボン師団は、湿気の多い地盤で混乱して南軍の激しい砲火の下を進めず、2個旅団(ピーター・A・ポーターとH・ボイド・マッキーン両大佐の旅団)が失われた[7]。ギボン師団の一人は偵察の欠如についてこぼしており、「我々はそれが殺人であり
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では無いと感じた。言い換えればまさに重大な誤りが行われた」と記した[8]。
中央ではライトの軍団が激しい砲火によって動けなくなり、それ以上前進しようとはしなかった。やはり大きな損失を出した6月1日の攻撃の繰り返しだった。いつもなら攻撃的なエメリー・アプトンまでが、その師団がこれ以上進むことは「不可能」と感じた。この地域の南軍防衛隊は、自分達の陣地に重大な攻撃が行われていると認識していなかった。
北軍の右翼では、スミスの部隊が不利な地形の中を進み、2つの谷間に入り込んだ。この部隊が南軍の正面に出てきたとき、ライフル銃と大砲の銃砲火で薙ぎ倒された。ある北軍士官は「兵士は前進するにつれて前屈みになり、あたかも大暴風雨の中を進んでいるようであり、兵士の列が次から次に押し倒されていくブロックか煉瓦の列のように倒れた。」と記した。ある南軍兵はダブルキャニスター砲の虐殺を「恐ろしく血塗られた仕事」と表現した[9]。スミス軍団に対する砲火は、右隣のウォーレン第5軍団が前進を躊躇しており、南軍の砲手がウォーレン軍団に向けていたものをスミス軍団に集中させたので、予想以上に激しいものになった。
戦場の北端での唯一の行動はジュバルー・アーリー軍と向き合っていたバーンサイドの第9軍団によるものだった。バーンサイドは強力な攻撃を始めさせたので、南軍の散兵を圧倒したが、最初の工作線を通ってしまったと勘違いし、午後に予定していた次の前線に動く前にその軍団を停止させ部隊編成をやり直した。
午前7時、グラントはミードに攻撃の成功した所に活発に付け込むよう忠告した。ミードは3個軍団の指揮官達それぞれに隣の軍団の動きに注意を払うことなく同時に攻撃するよう命じた。しかし、それがすべてだった。ハンコックは前進に反対する忠告をした。スミスは攻撃の繰り返しを「過剰な人命の浪費」と呼んで再度の前進を拒否した。ライトの部隊はそのライフル銃火を増したが、その場所を動かなかった。12時半までに、グラントは自軍の敗北を認めた。
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はミードに宛てたメモで「軍団指揮官達の意見は攻撃が命令されても成功の見込が少ないと言っている。貴方は当座これ以上の前進を中止する指示を出して良い。」と記した[10]。北軍兵は南軍の前線の前で釘付けになっており、コップや銃剣を使って塹壕を掘り始めた。時には即興の土盛りの一部として死んだ戦友の体を使った。
ミードは不可解にも翌日、自分が攻撃を指揮したことを自慢した。しかし、その功績はお粗末だった。軍団指揮官は戦場を検査するようにというグラントからの命令があったにも拘わらず、その偵察は手ぬるく、ミードは戦闘前もその最中にも適切に監督できていなかった。自軍の第2軍団全軍と第18及び第9軍団の一部約20,000名についてのみ動機付け出来たが、成功に導くために必要と分かっていた兵力を集中出来なかった。その部隊は連携のまずさもあって大きな代償を払った。その朝の損失の推計値は北軍側で3,000名ないし7,000名であり、南軍側は1,500名に届かなかった。