ヴァン・ドーン軍は手痛い目に遭ったが完全に逃げ遂せ、10月5日のハッチー橋の戦いでもグラントから派遣された北軍の攻撃をうまく回避し、ミシシッピ州ホリースプリングスに向かった。ヴァン・ドーンは2日目の攻撃を時間通りに始めなかったへーベルに敗北の責任を着せたが、それでも戦闘後直ぐにジョン・C・ペンバートン少将に指揮官職を交代させられた。コリンスでの無意味な損失に対しては南部中で憤りの叫びが広がった。ヴァン・ドーンはコリンスで執務中に酔っ払っていたということ、および撤退中に負傷兵を無視したという告発に答えるために調査委員会を請求した。委員会は全会一致であらゆる非難に対する無罪を宣言した。
1862年4月7日に終わったシャイローの戦いでの北軍勝利に続いて、ヘンリー・ハレック少将指揮する北軍は重要な鉄道の中継点であるミシシッピ州コリンスに向けて進軍した。ハレックはシャイローで受けた信じ難いほどの損失で慎重になり、前進するごとに塹壕で防御を固めるという退屈な攻撃作戦を始めた。5月25日までに3週間でやっと5マイル (8 km)前進し、コリンスの町を包囲する配置に就いた。
南軍の指揮官P・G・T・ボーリガード将軍はだましでその軍隊を救った。その部隊兵の中には3日分の食糧を与えられ攻撃に備えるよう命令を受けた者もいた。予想されたようにそのうちの1人か2人はその情報を持って北軍に降った。最初の砲撃戦が始まり、北軍が配置に就いた。5月29日の夜、南軍は脱出した。彼等はモービル・アンド・オハイオ鉄道を使い病人や負傷兵、重い大砲および大量の物資を運んだ。列車が到着すると兵士達は援軍が到着したかのように喝采を上げた。防御用土塁には木製の偽装大砲を並べた。かがり火は燃やし続け、ラッパ手や鼓手は演奏を続けた。その他の者は気付かれずに逃げ出し、ミシシッピ州テュペロまで撤退した。5月30日の朝、北軍の哨戒隊がコリンスに入ったとき、そこはもぬけの殻だった。
ジョン・ポープはその回想録の中で、ハレックの慎重な作戦が「グラント、シャーマン、シェリダン、トーマス、マクファーソン、ローガン、ビューエル、ローズクランズ、さらに幾らでも上げられる多くの」キラ星のように並んだ有能な北軍士官達という利点を生かせなかった、と注釈した
コールドハーバーの戦い(コールドハーバーのたたかい、英:Battle of Cold Harbor)は、南北戦争の中盤1864年5月31日から6月12日に行われた、北軍ユリシーズ・グラント中将が、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍に対して起ち上げたオーバーランド方面作戦の最後の戦いである。この戦いはアメリカ史の中でも流血が多く、一方的な結果となったことで記憶されている。南軍の防御を施した部隊に対し北軍が絶望的な正面攻撃を敢行して、数千の兵士が倒れた。グラントはその自叙伝の中でこの戦闘のことを。「私は常に、コールドハーバーでの最後の攻撃が行われたことを後悔してきた。同じような攻撃が1863年5月22日にビックスバーグでも行われたと言うことが出来る。コールドハーバーでは、我々の受けた大きな損失を償えるようなものは何も得られなかった。」と述懐した。
この戦闘は1862年の七日間の戦いの中でゲインズミルの戦いと
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バージニア州中部で戦われた。実際に1862年の戦闘を第一次コールドハーバーの戦い、1864年のこの戦闘を第二次コールドハーバーの戦いと呼ぶ史料もある。北軍兵は塹壕に入っている間、最初の戦闘の名残を見付けることを妨げられた。コールドハーバーはその名前とは異なり港湾市ではない。この地域に存在した宿泊所(アイザック・バーネット家が所有するコールドハーバー酒場)の名前を取った交差点のことであり、避難所(ハーバーの別義)であったが温かい食事は出さなかった。古いコールドハーバー酒場はゲインズミルの2マイル (3 km)東に建っており、新しいコールドハーバー酒場は1マイル (1.6 km)南東だった。2つの酒場共、アメリカ連合国の首都リッチモンドからは北東に約10マイル (16 km)の位置にあった。
コールドハーバーでのユリシーズ・グラント将軍、写真はマシュー・ブラディが1864年に撮影グラントのオーバーランド方面作戦は1864年5月4日以降進行中だった。荒野の戦いやスポットシルバニア・コートハウスの戦いは流血が多かったが引き分けに終わった。ノースアンナの戦いはリーが罠を仕掛け、グラントは何とかそれを避けられた。これらの大きな戦いの後で、グラントはポトマック軍(正規にはジョージ・ミード少将の指揮下にあったが、グラントが直接監督していた)をリー軍の右側面に回し、南東に動いた。北軍がパマンキー川を渉ると、リーはグラント軍の配置と意図を読もうとして、ホーズショップ、トトポトモイクリーク(ベセスダ教会)およびオールドチャーチで3つの小さな戦闘が起こった(歴史家の中にはこれら3つの戦闘を大きなコールドハーバーの戦いの一部として分類する者がいる)。オールドチャーチの戦いから、リーは北軍の騎兵隊が古いコールドハーバー酒場の交差点を狙っていると
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した。そこからはリッチモンドとリー軍の後方地域へのアクセスが容易な道路網が出ていた。
リーは、バミューダ・ハンドレッドからグラント軍の方向に援軍が向かっているという報告を受けた。この援軍はウィリアム・F・"ボールディ"・スミス少将の第18軍団16,000名であり、グラントの要請によって、ベンジャミン・フランクリン・バトラー少将のジェームズ軍から引き抜かれていた。この軍団はジェームズ川を下ってからヨーク川を遡り、パマンキー川に至った。もしスミス隊がホワイトハウス・ランディングから古いコールドハーバー酒場まで真西に動けば、ベセスダ教会の3マイル (5 km)南東のグラント軍左翼に付き、北軍の前線が南に大きく延びて南軍の右翼に対処できることになるはずだった。
リーは自軍にも援軍を宛てに出来た。アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスがP・G・T・ボーリガード将軍に指示して、ジェームズ川下流からロバート・F・ホーク少将の師団7,000名を派遣させた。リーは、これら追加部隊を得て、この方面作戦のこの時点までに受けた損失20,000名に入れ替えることによって、北バージニア軍は59,000名となり、ミードとグラントの108,000名と対抗することになった[1]。しかしこの勢力の格差は依然あった程のものではなかった。グラント軍の援軍は多くがワシントンD.C.の守備隊から引き抜いた徴兵間もない新兵やかなりの数の砲兵隊であり、歩兵戦術については比較的経験が足りなかったのに対し、リー軍は活動していない前線から移動させた古参兵が多く、その兵士達は厚く防御が施された塹壕に入ることになっていた。
オールドチャーチで戦った騎兵隊同士は5月31日も対峙し続けた。
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はマシュー・バトラー准将の騎兵隊を補強するためにフィッツヒュー・リー少将の1個騎兵師団を派遣し、古いコールドハーバー酒場の交差点を確保させた。北軍アルフレッド・T・A・トーバート准将が南軍への圧力を増すと、リーはリチャード・H・アンダーソン少将の第1軍団にトトポトモイクリークから右に動き騎兵隊を支援するように命じた。ホーク師団の先導旅団が交差点に到着しバトラーとフィッツヒュー・リーの部隊に合流した。しかし、午後4時、トーバート隊とデイビッド・M・グレッグ騎兵師団配下の部隊が南軍を古いコールドハーバー酒場の交差点から追い出し、塹壕を掘り始めた。ホークやアンダーソンの部隊がさらに殺到するようになったので、
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の騎兵指揮官フィリップ・シェリダン少将は心配になり、トーバートにオールドチャーチまで後退を命じた。
グラントは引き続き古いコールドハーバー酒場の交差点に興味を持ち、ホレイショ・G・ライト少将の第6軍団にトトポトモイクリークにあった右翼から交差点方向に移動するよう命じた。またシェリダンには「何がなんでも」交差点を確保するよう命じた。トーバートは午前1時に戻り、南軍がトーバートの後退に気付いていなかったことが分かってほっとした。
リーの6月1日の作戦は古いコールドハーバー酒場の交差点にいる北軍の小さな騎兵隊に対して新しく集中させた歩兵隊を使うことだった。しかし、その部下達は正しく歩調を合わせなかった。アンダーソンはその攻撃作戦でホークの師団と一体化せず、北軍の守備隊も統制が取れていなかったので、その大軍団の攻撃がうまく行くまでホーク師団は攻撃しないという理解をさせたままだった。ライトの第6軍団は夜半過ぎまで動き出さず、15マイル (24 km)の行軍中だった。スミスの第18軍団は誤って数マイル離れたパマンキー川沿いのニューキャッスルフェリーに派遣されており、トーバート隊を支援するために古いコールドハーバー酒場に到着した時は間に合わなかった。
アンダーソンは以前古参のジョセフ・B・カーショー准将が率いていた旅団で攻撃を始めたが、その旅団はこの時経験の足りないサウスカロライナ州の政治家ローレンス・M・キートが指揮していた。キート隊は塹壕に入った北軍ウェズリー・メリット准将の騎兵隊に接近した。メリット隊は7連発スペンサー・カービン銃で武装しており、激しい銃火を浴びせてキートに致命傷を負わせ、その旅団の結束力を破壊した[2]。ホークは自分に与えられたと理解する命令に従っており、攻撃には参加していなかったが、アンダーソンが直ぐに呼び戻した。
午前9時までに、ライトの先導部隊が交差点に到着し、騎兵隊が始めていた塹壕の延伸と改良を始めた。グラントはライトに即刻攻撃させるつもりだったが、その部隊は長い行軍で疲れており、敵軍の強度について情報が無かった。ライトはスミス隊が到着するまで待つことにし、
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は午後に到着した。スミスの第18軍団は第6軍団の右に塹壕を掘り始めた。北軍の騎兵隊は東に退いた。
午後6時半、グラントが朝にと命じていた攻撃がやっと始まった。ライトとスミスの両軍団が前進した。ライト隊は新しいコールドハーバー酒場と古い酒場とを結ぶメカニクスビル道路の南でほとんど進めず、激しい砲火にあって後ずさりした。道の北では、デイビッド・A・ラッセル准将師団のエモリー・アプトン准将旅団も南軍トマス・L・クリングマン准将旅団からの激しい砲火に遭い、「一面の炎が、雷のように突然、血のように赤く、兵士達の顔に焦げ後を残すかと見えるほど近くにきた。[3]」アプトンは兵士達に前進を鼓舞したが、その旅団は出発点に戻されてしまった。