■単純平均利回り

スチュアートはイーウェル軍団の所在を掴もうとして、数日前にイーウェルが占領したカーライルに乗り入れた。スチュアートは町が北軍民兵の小さな分遣隊に奪い返されているのを発見した。リーがゲティスバーグ近くにいることを知った後に戦闘を開始し、その過程でカーライル兵舎に火を付けた。 スチュアートがゲティスバーグに到着した後で、ウェイド・ハンプトンに南軍戦線の後方左翼をカバーする位置に陣取るよう命令した。ハンプトンは町の北東4マイル (6 km)のハンターズタウン道路に跨る場所に移動し、北軍がリー軍戦線の後方に回り込むかもしれない経路を塞いだ。ジャドソン・キルパトリック師団からジョージ・アームストロング・カスターとエロン・J・ファーンズワース各准将の2個騎兵旅団が南軍左翼の終端を探っていた。カスターがハンターズタウンとゲティスバーグの間の道路にいるハンプトン隊に攻撃を掛け、ハンプトンが反撃した。ファーンズワースがその旅団を連れて到着したとき、ハンプトンはその攻撃を抑えず、砲撃戦が暗くなるまで続いた。その後ハンプトンはゲティスバーグ方向に撤退した。 7月3日午後半ばに、ウィリアム・"グランブル"・ジョーンズ准将の「ローレル旅団」からの1隊がペンシルバニア州フェアフィールド近くで第6アメリカ騎兵隊を潰した。最初は第6バージニア騎兵隊が攻撃を掛けて撃退され、ジョーンズはその砲兵隊と第7バージニア騎兵隊を持ち出した。この援軍が効いて、ジョーンズはその尾根頂上にあった防御陣地から北軍を追い出し、3マイル (5 km)追いかけて停止した。この戦闘で、ヘイガーズタウン道路はリー軍がポトマック川に撤退する道として確保された。 ウィリアムズポートの戦いはリー軍がポトマック川方向に撤退する間に行われた一連の小規模戦闘だった。ミードはリー軍を追撃したが、リーがポトマック川を渡って逃げ出すまでに威力ある攻撃が出来なかった。7月4日以降の時期は雨が多く道は悪路となったが、リー軍は移動する動機が強く、ミード軍を置き去った。南軍騎兵隊のジョン・D・インボーデン准将は負傷者を運ぶ馬車隊を援護しており、7月6日に脹れ上がった洪水に遮断されたが、北軍ビュフォードとジャドソン・キルパトリックからの攻撃に大胆に立ち向かった。このときは負傷者にも武器を持たせて防御させた。ミードは7月12日に部下達と作戦会議を開き、リーが完全に川を渡って安全地帯に逃げ込む前の7月14日に攻撃すると決めた。しかし、リー軍の大半は7月13日から14日に掛けての夜にフォーリング・ウォーターズでポトマック川を渡り終え、ミードの作戦を潰した。ヘス師団の部隊が渡河を隠し、キルパトリックの騎兵隊が殿軍の約700名を捕獲した。ピケットの突撃を生き延びたJ・ジョンストン・ペティグルー准将はこの作戦中に致命傷を負った。 リー軍の殿軍を担当した騎兵隊がサウス山の峠で北軍騎兵隊を潰し、北バージニア軍に対する北軍の追撃を遅らせた。 ミードはシェナンドー渓谷で撤退中のリー軍を攻撃しようとして不成功に終わった。ウィリアム・H・フレンチ少将の攻撃は連携がまずかった。南軍の背面を襲ったが、南軍は比較的無傷で逃げ出した。7月24日、北軍はバージニア州フロントロイヤルを占領したが、リー軍はうまく追撃を逃れた。 ゲティスバーグ方面作戦は南北戦争におけるリー将軍の最後の大きな攻勢だった。この時点から、北バージニア軍のあらゆる戦闘行動は主導権をとった北軍への反応だった。リー軍はこの方面作戦で27,000名以上の損失を蒙り[6]、この代償は南軍にとって重いものとなった。また方面作戦の目的を何一つ果たせなかった。北軍の損失は約30,1000名だった[7]。 しかし、ミードはリー軍を逃がしたことで厳しい批判を浴びた。これはアンティータムの戦い後のジョージ・マクレランの場合と同じだった。リンカーンからの圧力を受け、ミードはその秋にリー軍を破るための2つの方面作戦を行った。ブリストー方面作戦とマイン・ランの戦いである。どちらも失敗だった。ミードは両院合同戦争遂行委員会の前で政敵のために、ゲティスバーグでの行動やポトマック川でリー軍を仕留め損なったことについて問われて、辱めも受けた。 1863年11月19日、エイブラハム・リンカーンはゲティスバーグ戦場跡に造られた国立墓地の除幕式典で演説した。そのゲティスバーグ演説は戦争を再定義し、具体的目標として奴隷制の破壊を挙げ、この国に「新しい自由の誕生」を要求した。 荒野の戦い(こうやのたたかい、英:Battle of the Wilderness)は、南北戦争の中盤1864年5月5日から7日に、北軍ユリシーズ・グラント中将が、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍に対して起ち上げたオーバーランド方面作戦の最初の戦いである。この戦いで両軍は大きな損失を出し、グラント対リーの流血の多い消耗戦の始まりとなり、最終的にアメリカ連合国首都リッチモンドを囲むまで続いた。戦闘そのものは戦術的に引き分けたが、グラントはその鉾先を逸らし攻勢を継続した。 戦場はスポットシルバニアの荒野であり、バージニア州中部のスポットシルバニア郡とオレンジ郡に跨る約70平方マイル (181 km2)以上に、ほとんど通過できないような低木の茂みと起伏の多い地形が拡がっていた。この近辺では1862年から1864年に多くの戦闘が行われており、中でも1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦いは損失が大きかった。「荒野」およびチャンセラーズヴィルは同じ地点で戦われたと言われることがあるが、実際の「荒野」は数マイル西であり、北軍の左側面にあたるブロック道路沿いの戦場が唯一重なっているだけである。 1864年5月2日、表向きジョージ・ミード少将の指揮下にあるポトマック軍だったが、グラントからの命令で3つの異なる地点でラピダン川を渉り、ウィルダネス・タバーンで結集した。この地点は1年前のチャンセラーズヴィルのときに南軍が結集し、北軍の右側面に破壊的な攻撃を掛けたところだった。しかし、不動産投資 は南に進む前に以前の戦場より西にその宿営地を選んだ。一年前の北軍とは異なり、グラントは「荒野」で戦いたいとは思っていなかった。 リーにとっては、一年前と同じ理由で「ワラント 」で戦う必要があった。リー軍の勢力61,000名に対しグラント軍101,000名と劣勢であり、グラント軍に比べて大砲の数も少なく銃の質も悪かった。樹木が混み合った中で戦うことにより、グラント軍の大砲の優位を打ち消し、また接近戦とその後の混乱とで劣勢なリー軍にもチャンスが生まれると考えた。 荒野の戦い、5月6日南軍ジェイムズ・ロングストリート中将の第1軍団2個師団(ジョージ・ピケットの師団はゲティスバーグの戦いでの損失を補充中であり、リッチモンドの防衛に回っていたので含まれていない)は、25マイル (40 km)西の重要な鉄道結節点ゴードンスビルを守っていた。リーは第1軍団を呼び寄せてこれを待ちながら、リチャード・イーウェル中将の第2軍団とA・P・ヒル中将の第3軍団22,000名を押し出し、グラント軍が南に動く前に交戦を目論みその通りになった。5月5日、リー軍の左翼イーウェル軍団と右翼ヒル軍団がくりっく365 と交戦した。 イーウェルの左翼は北軍ガバヌーア・K・ウォーレン少将の指揮する第5軍団と対戦し行き詰まりになった。この日の大半、イーウェルの18,500名の軍団は戦場のこの地域では勢力的にやや優勢を維持した。しかし右翼では、ヒル軍団がウィンフィールド・スコット・ハンコック少将の第2軍団と第6軍団からの1個師団に激しく攻撃され追い返された。しかしその陣地は守った。 5月6日、この日のハンコックは40,000名に近い部隊を指揮しており、ヒル軍団への攻撃を再開し、一方イーウェル軍団の前には北軍の増援が厚く到着したために、リーが第2軍団をヒル軍団に向かわせようとしたこともできなくなった。午前の遅くまでにハンコックはヒル軍団を2マイル (3 km)以上も押し込み、大きな損失を与えた。リーは第3軍団が悲惨な苦境にあるのを見て、数時間前に到着しているはずのロングストリート軍団を絶望的に待ち望み始めた。 ロングストリートと12,000名の第1軍団は正午頃にやっと到着したが、丁度良い頃合いでもあった。ハンコック部隊は6時間に及ぶ戦いで疲れ乱れてきていた。ロングストリート軍団が攻撃すると北軍が後退し、それから2時間のうちに状況は完全に反転した。ロングストリート軍団は失っていた地盤を取り戻したうえにさらに1マイル (1.6 km)前進し、ハンコック軍にブロック道路で再結集することを強いた。戦闘の決定的瞬間にロングストリートは未完成の鉄道が切れている所から攻撃して、これが北軍を分断し混乱を増させた。しかし、ここでその勝利を完結させるにはロングストリート軍団の勢力が十分ではなく、間もなくブロック道路付近で戦闘の勢いが無くなった。戦場のこの地域での戦闘が鎮まりかけたときに、ロングストリートは友軍の銃撃で重傷を負い、その後数ヶ月間北バージニア軍に戻れなくなった(偶然ではあるが、ロングストリートが事故で自軍に撃たれた場所は、外為 にストーンウォール・ジャクソン少将が友軍に撃たれて戦死した場所から約4マイル (6 km)しか離れていなかった。)。 戦闘のこの段階が終わろうとしている頃に、南軍第2軍団にあったジョン・B・ゴードン少将の1個師団が北軍右翼に最後の攻撃を掛け、部分的にポトマック軍の側面に回り込んで1,000名近い兵士を捕虜にした。しかし、暗闇が訪れて戦闘が終わり、南軍はその優勢をさらに押すことができなかった。 この戦争の中でも恐ろしい事件の一つとして、夜の間に両軍の間で局地的な火災が起こった。戦場に残されていた数百の負傷兵が戦友の見ている前で生きながら焼かれ、絶叫を上げながら死んだ。 5月8日、グラントはポトマック軍にその前進再開を命じ、数日後には10マイル (16 km)南東のスポットシルバニア・コートハウスの戦いで再び衝突した。 この戦闘は通常引き分けと書かれているが、戦術的に南軍の勝利であるが北軍の戦略的勝利と言うこともできる。グラントは戦闘の最後に軍を退いたので、通常の戦闘であれば敗北したことになった。しかし、1861年以来のグラントの前任者達とは異なり、安全なワシントンD.C.に引き返すのではなく、その作戦を継続した。リー軍はグラント軍にかなりの損失を与えたが、損失率で比べればグラント軍の方が小さかった。さらにグラント軍とは異なり、リーは失ったものを補充できる可能性が大変小さかった。この格差を認識したグラントの戦略の一部は消耗戦を挑むことで両軍を磨りつぶしていくことだった。リーがグラントの仕掛けた罠から抜け出す唯一の方法は、まだ南軍に十分な戦力が残っているときにポトマック軍を破壊することだったが、グラントの手口が巧妙でそれを起こさせなかった。 この荒野の戦いの損失については資料により外為 が異なる。下表は一般にある多くの史料からの要約である。 「荒野」の戦場の一部は、フレデリックスバーグおよびスポットシルバニア国立軍事公園の一部として保存されている。この公園は1927年に制定され、フレデリックスバーグの戦い、チャンセラーズヴィルの戦い、スポットシルバニア・コートハウスの戦いおよび荒野の戦いを記念するものなっている。アメリカ合衆国国立公園局によって保護されるこの土地に加え、幾つかのボランティア団体が保存活動を行ってきた。荒野戦場友愛会は、戦闘の間ガバヌーア・K・ウォーレン少将とアンブローズ・バーンサイド少将双方が作戦本部に使ったエルウッドの邸宅やストーンウォール・ジャクソン少将の腕が埋葬されているという話がある家族墓地を保存し質を上げる活動を続けてきた。国立公園局が1970年代にエルウッドの180エーカー (72 ha)を獲得する一方、荒野戦場友愛会は1790年代の家の保存やその由来解説に責任を持っている。南北戦争保存信託は2008年に、ルート3号線(ジャーマナ高規格道路)とルート20号線(オレンジ・ターンパイク)の交差点の北で55エーカー (22 ha)の土地にウォルマートが141,000平方フィート (13,000 m2)のスーパーセンターを開発する計画を阻止しようと動き始めた。この計画はウィルダネス・タバーンの場所近くで国立軍事公園からはルート3号線の直ぐ向かい側になる。この運動を支持するその他の団体としては「荒野の戦場跡連盟」があり、ピードモント環境理事会、冷気保存のための国民信託、国立公園保存協会、荒野友愛会およびフレデリックスバーグ地域戦場跡友愛会を含んでいる