■単純株価平均

イーウェル軍団は、南軍がブルーリッジ山脈の背後で動くために、ロバート・H・ミルロイ少将のウィンチェスター守備隊を破ることで、シェナンドー渓谷を南軍の自由にした。ミルロイはハーパーズ・フェリーまで撤退する命令を受けたが、その防御力で攻撃や包囲に耐えられると考え、残る方を選んだ。ミルロイは6月14日の夕暮れにチャールズタウンまで行けると期待して撤退したが、エドワード・"アレゲニー"・ジョンソン少将師団の側面攻撃で遮られ、3,000名以上が捕虜となり、リー軍は多くの大砲や物資用荷車を捕獲した。リーは当初、ロングストリートとヒルの軍団にブルーリッジ山脈の東側を進ませるつもりだったが、イーウェルのウィンチェスターの戦闘で、支援が必要となった時のために両軍団とも西側に来させた。3個軍団全てがシェナンドー渓谷の北上を続ける一方で、スチュアートの騎兵隊はリー軍の動きを隠すためにラウドアン渓谷(重要なブルーリッジ山脈の東入口)を守った。 一方、ポトマック軍は慣れない行軍速度で動いていた。6月16日、マナサスの鉄道結節点に到着した。フッカーはリーの意図が分からず、スチュアートの騎兵隊がブルーリッジ山脈の背後での軍の動きを効果的に隠していた。フッカーは当初、リー軍がいなくなった隙にアメリカ連合国首都リッチモンドを奪うことで対応しようという考えを抱いていた。しかし、リンカーンはリー軍が真の目標であることを厳格に思い出させた。アンドリュー・カーティン知事はそのペンシルバニア州がリー軍の目標にされることを怖れ、5万名の志願兵募集を要求した。当初は7,000名しか応募が無かったが、カーティンはニューヨーク州民兵隊からの支援を求めた。ニュージャージー州のジョエル・パーカー知事もペンシルバニア州に軍隊を送ることに応じた。 バージニア州アルディーで北軍のジャドソン・キルパトリック准将の旅団とFX 初心者 トマス・T・マンフォード大佐の間で激しい騎兵戦が起こり、ブルーリッジ山脈の直ぐ西ラウドアン渓谷に深く入ろうという北軍騎兵の動きを遅らせた。4時間に及ぶ騎兵線の後で、キルパトリックに援軍が付き、マンフォードはミドルバーグに向けて撤退した。 第1ロードアイランド騎兵連隊がミドルバーグで攻撃され、南軍の2個騎兵旅団に完敗した。6月19日、スチュアートの部隊が町の背後で撃退され、遠くラウドアン渓谷まで撤退した。 キルパトリックがアッパービルで南軍のウェイド・ハンプトン准将の部隊を攻撃する一方で、ジョン・ビュフォード准将の指揮する北軍騎兵師団が南軍騎兵隊の側面を衝いたが、撃退された。スチュアートは巧みにその輜重隊を守り、最終的にアシュビーズギャップ近くの強力な防衛陣地に撤退した。しかし、一旦北軍騎兵隊がその地域から撤退すると、スチュアートは直ぐに3個騎兵旅団を率いラウドアン渓谷を出て、ポトマック軍の右翼を越えて東部に対する広範な偵察と襲撃を行った。このことはこの戦争で最も議論を呼ぶ行動となった。リーがスチュアートに与えた命令は、軍隊の動きを隠し北軍の動きを報告させる意図だったが、スチュアートはこの命令を誤解したか無視したかで、敵の領域内の偵察がないままにリー軍を放っておき、以前の手柄を再現しようとして、敵軍を完全に回り込み補給部隊を襲撃しようとした。 イーウェルの日経225 はペンシルバニア州深く入り続け、2個師団にはカンバーランド渓谷を通ってペンシルバニア州ハリスバーグを脅かさせ、一方ジュバル・アーリーの師団は東のサウス山地区に動いて、州緊急民兵隊および騎兵2個中隊と一連の簡単な小競り合いを繰り返した後で、6月26日にゲティスバーグを占領した。 リーの攻撃的戦略が明らかになったので、北軍総司令官ヘンリー・ハレック少将はその時アメリカ連合国首都リッチモンドの防御が薄くなっていることを利用して報復行動を立案した。ジョン・A・ディクス少将のバージニア方面軍2個師団に、バージニア半島の駐屯地(ヨークタウンとウィリアムズバーグの周辺)およびサフォーク近くからリッチモンドへ進軍することを命じた。しかし、ハレックはディクスにリッチモンドを攻撃する明白な命令を出さないという誤りを犯した。その命令は、「サウス川とノースアンナ川に架かる鉄道橋を確保し破壊することでリッチモンドを脅かし、可能な限りの損失を与えること」となっていた。ディクスは尊敬される政治家であり、攻撃的な将軍ではなかったが、ハレック命令の曖昧さにも拘わらず結果的にリッチモンド攻撃を意図した。6月27日、サミュエル・P・スピアズ大佐が率いた騎兵部隊がハノーバー鉄道結節点を襲って成功し、鉄道を守っていた南軍連隊を打ち破り、サウスアンナ川の橋と需品補給所を破壊し、物資や荷車を捕獲し、それにリー将軍の息子W・H・F・"ルーニー"・リー准将を含み100名を捕虜にした。6月29日、作戦会議の場で、ディクスとその副官達は自軍が限られた戦力(32,000名)であることの心配を表明し、脅威を与える動きに限定することを決めた。南軍のD・H・ヒル少将は、北軍のリッチモンドに対する進軍を「先物取引 ではなくて、かすかな(faint)ものだ」と記した。この作戦の実効は主に心理的なものであり、南軍には首都を守らせるためにリー軍から幾らかの部隊を戻させることになった[5]。 6月27日の夜、リンカーンはフッカーを解任する命令を出した。フッカーは総司令官ヘンリー・ハレックとハーパーズ・フェリーの防衛部隊について議論しており、衝撃的に辞任を申し出ていた。ハレックとリンカーンは辞任を認めた。以前は第5軍団を指揮していたジョージ・ミード少将が、6月28日早朝、メリーランド州フレデリックでポトマック軍の指揮を執るように命令された。ミードは、以前は軍隊を指揮することに興味が無いと表明していたが、この指揮官変更命令に驚かされた。実のところ、ワシントンから来た士官がミードを起こして命令を伝えたとき、自分は何かの罪で逮捕されたと思った。フッカーの作戦がどのようなものだったか、さらに北西に素早く進軍している敵の3部隊の位置をほとんど知らないままに、ミードは自分流の動きを始めた。 リーは、そのいつもは鈍い先物取引 がはるか北に動いたことを知らなかった。スチュアートの騎兵隊からの情報が入らないために気付かないままにしていた。ロングストリートが雇ったスパイの報告で初めて、敵軍がポトマック川を渡って近くまで迫っていることを知った。このときまでにリー軍は広く分散していた。イーウェルの軍団はサスケハナ川までほぼ到着しており、ペンシルバニア州都のハリスバーグ襲撃に備えていた。アーリーの師団はヨークを占領したが、これは戦争中に南軍の手に落ちた最大の都市になった。ロングストリートとヒルはチェンバーズバーグ近くにいた。リーはその軍団指揮官達に急報を送り、状況に応じてキャシュタウンあるいはゲティスバーグ周辺に集結するよう伝えた。 南軍アルバート・G・ジェンキンス准将が指揮する騎兵隊が6月28日にメカニックスバーグ付近を襲撃し、29日にはキャンプヒルの西側スポーティングヒルで第22および第37ニューヨーク州民兵隊と小競り合いを演じた。南軍は続いてカウチ砦の外郭防衛軍に圧力を掛け、1時間以上も防衛軍と争った。これはゲティスバーグ方面作戦の中では一番北での戦闘となった。その後、カーライルの方向に撤退した。 J・E・B・スチュアートは北軍を回り込み広範な襲撃の中で、北軍騎兵隊を攻撃してハノーバー市中を通って撤退させた。北軍のエロン・J・ファーンズワース准将の旅団が到着して反撃し、スチュアートを捕まえる寸前までいった。さらに援軍が到着した後で、スチュアートは手詰まりとなり、さらに東へ動くことを強いられた。スチュアートのイーウェルの進軍と接触を保つようにという命令は完遂される事がなく、続く大会戦の前夜には、リー軍から離れて2日間を乗り回していたことになった。 ゲティスバーグは南北戦争最大の戦いであり、しばしば転換点となったと考えられている。ミードは16万人の軍隊で3日間戦ってリー軍を破り、51,000名の損失を出した。南軍ヘンリー・ヘス少将の師団に属する旅団がビュフォードの騎兵隊、続いてジョン・F・レイノルズ少将の第1軍団を潰した遭遇戦で戦いは始まった。北軍第11軍団が戦場に到着したが、第1軍団共々、北から到着したイーウェルとヒルの軍団に叩かれ、町を抜けて撤退し、町の南にあるセメタリーヒル、カルプスヒルおよびセメタリーリッジに防御的陣地を布いた。7月2日、リーはミード軍の左翼と右翼に大量同時攻撃を掛けた。リトルラウンドトップ、デビルズデン、ホィートフィールド、ピーチオーチャード、イースト・セメタリーヒルおよびカルプスヒルで激しい戦闘が展開された。ミードはその内側の戦線に沿って自軍を移動させ、南軍の前進を撃退できた。7月3日、リーは北軍中央に対してピケットの突撃を敢行させて、ほぼ3個師団が壊滅した。この時までに、スチュアートが戻り、主戦場の東で北軍の後方に回り込もうとしたときに騎兵同士の戦闘が起こり決着が着かなかった。両軍は7月4日(ビックスバーグの戦いで北軍が圧倒する勝利を挙げたのと同じ日)を対峙したまま過ごし、続いてリーが自軍に撤退を命じた。